会社が潰れてから……

1997年11月のある土曜日。いつものようにおそくまで寝ていたら、友人から電話。「親会社がたいへんなことになってるで……。」ねぼけていたぼくは、よくわからないまま電話を切ったたのですが、日経新聞をとって読んでみると、たしかにすごいことになっています。一面トップでのおおきな扱いです。直前には、三洋証券の会社更正法申請とか拓銀の倒産とかあったから、「大変な世の中になったなぁ。まぁ、でも、うちは、株価がひどいことになっているけれど、さすがに大丈夫だろう。」なんて思っていた矢先のことでした。

あらあら、なんて思いながら、当時住んでいた寮のトイレに向かうと、廊下のあちらこちらで、井戸端会議が始まっています。同期が集まっていたので、そこに参加してみたわけですが、これからどうなるのか、考えてみたところで不安が募るばかりです。このままこうしていてもしかたがないので、その週末は予定されていた用事をこなすことにしました。

ここまで読んだだけでわかる人はわかると思います。そう、ぼくの勤めていた会社は山一證券の子会社だったのです。その山一情報システムは、山一證券の自主廃業決定後も、とりあえず、存続することだけが決まりました。しかし、収入のほとんどを親会社に頼っていた会社が生き残れるはずがありません。

一週間ほどして、「米EDS社に従業員だけ移動」って新聞に載るよ。という話が連絡網(笑)でまわってきました。そか、なるほどね。なんにしても、山一情報システムという会社は無くなってしまうのね。なんて感傷にひたっている暇もありません。そのとき抱えていた案件の都合でお客さんのところに行って、そんな事情を説明したりしました。が、数週間後、米EDSではなくワンマン大川CSKらしい。っつうことになりました。

世間の人は、仕事が無くなって大変ねぇ。なんて思っていたらしいし、実際、山一証券の仕事をやっていた人達は本当に仕事が無かったようだけれど、おいらにとってこの時期(97年12月〜98年1月)がいちばんつらかった。新人にも関わらず、抱えている案件は3件。しかも、そのすべてがプロジェクトマネージャと開発担当のおいら2人のチームという状態でした(1件は方針がかわったことでプロジェクトがら離れることになりましたが……)。毎日が日付が変わることまで残業、週末は休日出勤という状態で会社が潰れるなんて嘘のようです。当然、年末年始どころではありません。

そんななか、いわゆる人材バンクから声がかかり、「ある企業が是非こにしさんとコンタクトをとりたい。ということで……。」なんて話がありました。しかし、業務が忙しく、それどころではありません。精神的にも体力的にも余裕があるはずもなく、とりあえずある程度余裕ができるまで待ってくれ。という状態でした。ただ、転職するのなら、おいら自身ひとりっこということもあって、両親が暮している大阪に戻ることを考えたい。とだけ伝えました。

CSKの子会社としての新しい会社の骨格がやっと決まりつつあったころ、やっと、外資系のメーカーの某社の方と会う機会ができました。その面接でぼくが話したのは

と、まぁ、そんなことで、某社さんからは、SAP/R3の部隊があるからそこに来ていただけないだろうかということで内定を頂きます。が、その日の夜中でした。こんどはその会社が別の会社の買収されることになったのです。忘れもしません1月26日でした。そう、内定を頂いた会社は某外資系D社だったのです。ぼくは、そういう運命なんだな。と悟りました(笑)。

あいかわらず忙しい日々は続き、それでもなんとか時間をつくって、辞めることを考えている。なんて先輩に相談すると、引き止められました。新しくできる会社での上司にも上の条件の「大阪に帰る」以外は認めてもらえて、まぁ、残ってもいいかな。なんて思ったわけで、気がついたら、新会社の社内インフラ整備プロジェクトチームに入っていました。

そんななか、2月末で独身寮が廃寮になる。という話が突然告げられて、あわてて住む部屋を探したりとか、やっぱり休日出勤していたりとか、結局のところ、忙しい状態に変化はないまま時間だけが過ぎていきます。

2月末で山一情報を退職し、3月からCSKワンマン大川の作った新会社での仕事になりました。が、人間がほとんどそのままなので、仕事内容や仕事のやりかたがとつぜん変わるわけがなく、それまでと同じように、おいらのスケジュールを無視して仕事が降ってきます。おいらが忙しいのを知っていて、なお、別の案件のデータベースとネットワークを担当してくれ。とか、無茶を言ってくる別のグループのリーダーもいます。技術的な可能と時間的な可能は意味が違います。そういえば、12月から1月が忙しかったのもこの案件に無理矢理アサインされたのが原因だったな。技術的な可能と時間的な可能が全く違うことをわかっていないあなたの下では働けません。なんて思った。違う課からの依頼だったし、ぼくの上司は、ぼくがどの程度忙しくどの程度無理をしているかわかってくれていたので、その話はぼくのもとを離れていきました。

それでも、なにか、すっきりしません。ぼくがこんなに忙しいのに、一日中暇そうにしている人がいます。ぼく1人こきつかわれているような気がします。まわりの話を聞いてみても、どうやら、忙しいのは一握りの人間のようです。どうしても、恐い想像をしてしまいます。「ぼくは、いつまでたっても、こうしてこきつかわれるだけで、社内のなんでも屋になってしまうのだろうか……?」そう思うと、やっていられません。将来に対する不安がどんどん増大していきます。

3月末ごろも社内インフラの整備ともう一方の案件で休日出勤したり、徹夜したりな状態です。結局、悩みに悩んでD社への転職を決意します。前日まで引き継ぎで退社日の次の日には、初出社という状態でした。

Dという会社は、なんとも働きやすい会社です。外資系だからでしょうか、「僕にの資産価値」に対して給料を払っているというわかりやすいシステムです。日本法人ができて30年ということもあり、年功序列がまったく無いというわけではありませんが、上司も先輩も後輩も「〜さん」と呼ぶからでしょうか組織そのものが非常にフラットで、自分のやりたいことを主張できる会社です。逆に言えば、やりたいことを主張しなければ、仕事が無いのですが……。

転職してみて思うのは、転職してよかったな(笑)。てなことでしょうか。


こにしかつひろ<konishi@hauN.org>
Last modified: Fri Aug 28 21:32:51 JST 1998